vol.5
INTERVIEW 1
60年後の日本の山に思いを馳せ
紀州 山長商店十代目当主 榎本長治さん
INTERVIEW 2
夢を先延ばしにしない、という生き方
山谷優司さん ひとみさんご夫妻
自然素材住宅のお宅訪問
南足柄の日当たりのいい丘に
自然素材で快適を追求する家づくり
INTERVIEW 1 60年後の日本の山に思いを馳せ |
いわゆる「紀州材」の産地、和歌山県で林業を営まれる榎本さん。
株式会社山長商店 創業は江戸末期。林産物木炭問屋として和歌山県南部の山林を集積し、林業を営む。
明治初頭より建築材としての杉・桧の育林事業に移行し、「紀州材」の生産者として地域の中核的な役割を担う。 |
5000ヘクタールにも及ぶというその山林は、紀州はもとより、個人所有としては全国的にも有数のスケールです。
豊かな森林資源を持ちながら、輸入材との競合など厳しい経営環境が続く今の日本にあって、林業家はどんな思いで事業に取り組んでいるのか。お話を伺いました。
山は社会からの預かりもの |
「循環型社会」という言葉が盛んに聞かれるようになったのは、最近の話。
でも、ずっと以前から循環型のビジネスとして歴史を重ねてきた分野があります。その一つが林業です。
伐採と聞くと自然破壊を連想する人がいるかもしれませんが、正当な林業は切って売って終わりではなく、農業と同様、育てて収穫するビジネスです。
木なんて植えれば勝手に育っていってくれそうなものですが、実のところそうはいきません。恐ろしく手がかかる。
林業とはどんな商売なのかという私たちの問いに、榎本さんは八代目当主であるお祖父さんが口癖のように語っていたという言葉を教えてくれました。
『われわれは、社会から山をお預かりしているんだ。お預かりしている間は、それを少しでもいい山にしていくことがわれわれの使命なんだ。』
山というのは、人の手が加えられることでいいものになっていくのだと榎本さんは言います。
そこに植えられた木も、放っておいてはいい木に育ちません。
だから常に適切な管理をして、山を経営していく。そうすることでやっといい山ができるのだそうです。
個人の資産というより、預かりものであり使命であるという感覚。
これこそが今日、榎本さんたち日本の林業に携わる人たちの心の糧なのかもしれません。
というのも、日本の林業は長い間、厳しい経営環境にさらされ続けてきたからです。
拡大造林、そして輸入材の台頭 |
昭和20年代から30年代にかけて、世は戦後の復興期。
日本では木材の需要が急増しました。
供給が追いつかず、木材不足となって、この時期に国策として「拡大造林」が行なわれました。
拡大造林とは、広葉樹を中心とした天然林を、針葉樹を中心とした育成林に置き換えていくことです。
背景には、エネルギー革命もありました。
家庭燃料の主役だった薪や木炭などが、この時期に急速に電気や石油、ガスなどに切り換わっていきました。
価値の薄れた薪炭林としての広葉樹は、建築用材などとしてニーズの高い杉や桧へ。
拡大造林は日本全国で進んでいきました。
他方、やはり昭和30年代には、不足する木材の需要を補うために「木材の輸入自由化」が始まりました。
国産材と比べて価格が安く、かつ大量供給が可能な輸入材は瞬く間にシェアを伸ばしていきました。
さらに昭和50年代になり、変動相場制への移行で円高が進むと、いよいよ輸入材は国内市場を席巻。
昭和30年代には9割以上だった木材自給率は、2割ほどにまで落ち込んでしまいました。
県土面積の4分の3以上、約77%を森林が占めるという和歌山県では、木は古くから人々の生活の糧となってきました。
「林業」というように、それは多くの人が従事している一つの産業です。
木を育てて出荷するまでには、実に多くの「仕事」があるのです。
地拵えに始まり、植林、そこからおよそ10年間は下刈り、雪おこし、つる切り、枝打ち。
15年を過ぎると植えた木の育ちを妨げる灌木などを伐る除伐、さらに林内環境を良くするための間伐を行ないながら、半世紀から1世紀を経て伐採し、やっと商品としての木材になるのです。
そうして再び、また一からのサイクルを繰り返していく。
こうした地域の産業とそこに関わる多くの人たちの生活、つまりは山村社会を守っていかなければならないという思いもまた、榎本さんたちが林業にかけるエネルギーの源となっているに違いありません。
生き残りをかけた取り組み |
実際、各地で廃業した林業家も少なくなく、山林荒廃や山村地域の活力低下が社会問題化しています。
手をこまねいていては生き残れない状況の中で、榎本さんも存続をかけてさまざまな手を打ってきました。
その一つが、一貫生産体制の構築でした。
木材の流通は、もともと分業で発展してきました。山主は山で立ち木を売り、伐採業者が買う。買った木を伐採し丸太にして市場に出す。それを製材業者が買って製材し、製品市場に出す。
それを仲買人や小売業者が買って工務店に販売し、大工さんが加工して家にする。
しかしこういう流れでは国産材の持つ特徴や良さも下流まで伝わらず、輸入材と一元化されて価格だけで判断されてしまう傾向がありました。
これを何とかしなければいけない。
建築用材では近年、図面に合わせて事前に工場で精密加工するプレカット加工が一般的になってきましたが、そのプレカット加工までの一貫生産体制を自前で築くことを榎本さんは決意しました。
川下までの工程を取り込むことで原木の相場のみに翻弄されることなく、林業のサイクルや山村社会の維持に利益を還元していける可能性を広げられることになります。
プレカット工場は平成9年に完成し、操業を開始しました。
この効用について、工務店と直接取り引きができるようになったことが大きいと榎本さんは言います。
以前は自分たちの山から切り出された木がどう使われているのかほとんど見えなかったけれども、工務店から直接受注することで施主の考えまでもがある程度わかるようになってきたからです。
同時に、そういう接点ができたことで榎本さんたち生産者側の思いや国産材の価値について伝えることもできるようになってきました。
まだ小さな一歩ではありますが、これも国産材の未来を開く新たなステップにできるかもしれません。
より良質な製品作りのために |
輸入材に対して国産材が価値を認められ、より多く利用されていくためには、芯持ち材の活用が不可欠です。
きれいに木目の通った無垢材はほれぼれするほど美しいものですが、反りやねじれ、割れなどの問題が出る可能性も併せ持っています。それらを抑えるにはしっかりと乾燥させることが必要で、榎本さんも長年にわたって質のよい木材を作るための乾燥のやり方を研究してきたのだそうです。そして現在では最新鋭の設備を導入し、桧材に比べてはるかに乾燥が難しいとされる杉材についても高いレベルでクリアできる態勢を確立しています。製材の含水率はJAS規格で定められているのですが、榎本さんの会社では高温蒸気式減圧乾燥機によって径の大きな木についても高い能力で乾燥させ、さらにマイクロ波による木材含水率の算出、木材を打撃して強度を測定する品質検査できちんと診断・評価して加工に回しているのです。工務店やエンドユーザーに国産材を安心して使ってもらうための製品作り。これもまた、榎本さんの終わりなき探求です。
ちなみに木材の乾燥には多くのエネルギーが使われますが、榎本さんはバイオマス熱源装置を導入し、燃料には製材・加工の過程で出る樹皮や端材、おがくずなどを活用しています。木材というのは、およそ無駄になる部分のない自然資源です。
公共の建物を木造化していこう |
またこうした流れを受け、平成22年度には「公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律」が成立・施行されました。これは林業の再生を図るために木材の需要を増やすことを目指すもので、公共建築物にターゲットを絞り、国が率先して木材利用に取り組もうという法律です。公共建築物の木造率は低く、平成20年度では床面積ベースで7.5%。今後はこれに対して、国はもとより地方公共団体や民間事業者にも国の方針に即して取り組みを促し、住宅など一般建築物への波及効果を含め、木材全体の需要を拡大することを狙いとしています。例えば保育所や幼稚園、地域の集会場、学校など、低層の公共建築物については木造化が図られていくことになりそうです。
木の香りと温もりの感じられる建物で子供たちが育ち、市民が集う。実現していけば、今より素敵な社会環境が形作られていきそうです。
木材は温室効果ガスの貯蔵庫だ |
二酸化炭素の吸収力が衰えた高齢樹を伐採し、吸収力の大きな若い木々を植える林業のサイクルは、大気中の二酸化炭素削減に大いに役立ちます。
そして二酸化炭素を固定化した伐採後の木材も、京都議定書に基づく森林による吸収量として計測しようというのがこの合意です。これには輸入材は除外され、国産材のみが該当します。細部の詰めはこれからですが、国産材の利用促進につながる話題であることは間違いありません。
この爽快感を未来に遺したい |
国産材の販売拡大など、経営者として席の暖まる隙もないほど忙しく飛び回る榎本さんですが、今でも時間を見つけて林に入ることがあるそうです。そこにたたずんで風の音や鳥の声に耳を澄ませたり、木々の香りが漂う空気を肌で感じたり。そんな時、榎本さんが視線の先に見ているものは、今年の苗木が巨木に育ったはるか未来の林の中で、やはり大きく息を吸い込み爽快感に浸っている誰かの姿なのかもしれません。
INTERVIEW 2 夢を先延ばしにしない、という生き方 |
山谷優司さん ひとみさんご夫妻
「そのうちに」と思い続け、実現させられていない夢や目標。 どなたにも思い当たることがあるのではないでしょうか。 しかし念願だったという海外生活を、定年を待つことなく実現させたというご夫妻がいらっしゃいます。
思い切りのいいその決断に至った背景や、実際の海外生活の様子、近況などをたっぷり語っていただきました。 |
型通りでない海外旅行を満喫 |
ご夫妻はともに北海道・函館で生まれ育ち、大学の先輩後輩として知り合ったそうです。
卒業後、結婚され教員として神奈川へ。
以来この地で暮らし続けています。神奈川への赴任が新婚旅行代わりだったという結婚生活のスタートでしたが、翌年には夏休みを利用してお二人でヨーロッパ旅行へ。
まだ海外旅行が一般的でなかった1970年代前半、リュックサックを背に1カ月かけてヨーロッパを回るという旅はかなり時代の先端を行っていたのではないでしょうか。
ほどなくお子さんが誕生したため、その後は揃って海外旅行に行くことは長い間お預けに。
しかし二人の男の子に恵まれ、夏はキャンプに冬はスキーにと、お子さんたちの成長に歩を合わせながら一緒に楽しんできたそうです。
次に海外に出かけたのは、1994年。
やはり夏休みを利用して、兄弟ダブル受験のお子さんたちを日本に残し、お二人でニュージーランドへ。
当地ではセスナやヘリコプターをチャーターし、氷河スキーを存分に楽しんできたといいます。
真冬の晴天の下、ご夫妻二人とガイド二人だけの白銀の世界は、優司さんいわく「人生最高の至福の時だった」とか。
そして楽しかったこれらの旅行は、お二人をさらなる人生の楽しみへと誘う契機となったようです。
定年を待たず海外生活を断行 |
優司さんは北海道育ちで大学ではワンダーフォーゲル部に所属していただけに、スキーやトレッキングが好き。
教育学部の美術専攻で、絵を描くのも写真を撮るのも好き。
一時期は蒐集にも凝ったほどの蝶のマニアであり、生き物全般が好き。その上、若いころから「やりたいと思ったことは先延ばししないですぐにやる」という信条の持ち主ということで、家族との時間だけでなく、仲間同士で山歩きに行ったり、毎年絵画の個展・グループ展を開催したりと、たいそうアクティブに人生を謳歌してきました。
出産を機に教員を退職していたひとみさんも、子育てが一段落してからは好きだった語学の分野で行動再開。
語学学校で初級英会話を教え、地域の外国人の方たちに日本語を教えるボランティアをするという日々を過ごしていました。
そんな中、急な病に倒れ意識のもどらないままだったお母様を看取るという経験をされたひとみさん。
人生観が変わるような出来事でした。
やりたいことを来年やろう、5年後にやろうと思っても、人間いつ何があるかわからない。
そのころ、ひとみさんは語学を教えるための勉強をきちんとやりたいという思いを抱いていました。
さらにご夫妻には、行って帰るだけの旅行ではなく、海外で生活してみたいという考えもありました。
優司さんの定年までもうあと数年というタイミングでしたが、それまで待つことなく、ご夫妻は行動に踏み切りました。
ひとみさんは留学生としてオーストラリア・シドニーの大学院へ、優司さんは早期退職して配偶者ビザを取得し、ひとみさんの勉強生活を支える主夫として、揃って日本を飛び立ちました。
2004年12月のことでした。 念願だった海外生活はやはり楽しかった、と優司さん。
家事の合間に、時間のある限りシドニーの街を回ったといいます。
マウンテンバイクで、あるいは歩きで、写真を撮ったり絵の材料を探したり。
ひとみさんは勉強漬けの毎日だったそうですが、それでも休日にはバヌアツやタスマニアなどへお二人で足を伸ばし、南半球のバカンスを満喫。
2006年2月の帰国まで、中身の濃い日々を過ごしてきたようです。
ネパールの日本語教室で教える |
日本に戻ったのも束の間、同じ年の9月にご夫妻は再び海外に向かいました。
今度の行き先はネパールでした。日本で知り合ったネパール人の知人から頼まれ、ひとみさんが現地の日本語学校で日本語を教えることになったのです。
今回は優司さんもアシスタントとして教室に入ることになりました。
ネパールは高地というイメージがあるかもしれませんが、インドとヒマラヤ山脈の間の斜面に位置する高低差の大きい国。
低地は熱帯でゾウやワニがいてバナナもいっぱい、高地はエベレスト山を始め8000m級の高峰を含む高山地帯、そしてその中間にある首都カトマンズでご夫妻は翌年の5月まで暮らしました。冬を越したことになりますが、東京よりも暖かく、雪もめったに降らなかったそうです。
いくつかあった選択肢の中からひとみさんがネパールを選んだのは山好きの優司さんのためでもありましたが、悪いことに優司さんはネパールに発つ直前に椎間板ヘルニアを患い、ひどい腰痛を抱えたままの渡航となってしまいました。
現地での移動はもっぱら現地で購入したバイクと自転車。
それ以前に一度トレッキングでネパールを訪れたことのある優司さんでしたが、この時は結局一度も山歩きには行けず、毎日のように屋上に上って双眼鏡で眺めるだけの生活だったとか。
その心中はさぞやという感じですが、優司さんはその後2009年に山仲間とネパールを再訪し、8000m級の山を含め存分にトレッキングを楽しんで見事リベンジを果たしてきたそうです。
続いて東ヨーロッパの小国へ |
そして日本で日常生活を楽しむ |
ってくるのだとか。そんな風に日常を存分に楽しみつつ、一方ではまだ登ったことのない南米やアフリカの山に思いを馳せる優司さん。ひとまず今年は、前回歩けなかったコースを楽しみにまたまたネパールへ行くのだそうです。
やりたいことを「いつかきっと」で終わらせず、軽やかに実現していく山谷さんご夫妻。人生を楽しむとは、きっとそういうことなのでしょう。
自然素材住宅のお宅訪問 南足柄の日当たりのいい丘に自然素材で快適を追求する家づくり |
自然素材にこだわる |
南足柄の日当たりの良い丘に、S邸はあります。
空気と水のいい場所を求めて探し回り、最後にご夫婦が選んだのがこの土地。
坂道を上って行くと白壁に整然と窓の並んだその美しい建物は自然と目に飛び込んできます。
「心惹かれたので是非、中を拝見させてください」とやはりこの辺りの土地を下見に来た人が突然訪ねてきたこともあったそうです。
実はこのきれいに並んだ窓の配置も、奥様のこだわりの一つ。
日本の住宅は内部の都合に合わせて窓を作る傾向がありますが、外観も美しくなるよう、窓の配置を考えた上で間取りを決めたといいます。
家具との関係も同様で、以前からお使いだったお気に入りの家具の納まりを考え、柱の間隔などを調整していったのです。
細部まできちんと考え抜き、設計・施工に反映させたことがこの美しさの理由の一つです。
場所にこだわったように、ご夫婦は家を建てるにあたってまず自然素材にこだわりました。
奥様はアレルギー体質で、これまで住宅のせいで体を崩したこともあったとか。
それだけに自然素材を謳う工務店をいくつも見て回ったのですが、隠れたところに合板をあしらうなど、心から納得できる会社に巡り合えずにいました。
また、家マニアを自認する奥様は小さい頃から住宅の間取図を見たりインテリア雑誌を読んだりするのが好きで、ご自宅を建てるにあたって当然実現したい思いがたくさんありました。
しかしそうした思いも、煙たがられることが多くてお困りだったといいます。
建材から意匠、内装まで、家づくりに対するあふれるほどの思い。
「それらをすべて受けとめてくれて、しかも要所要所で適切なアドバイスをもらえた唯一の会社がトレカーサさんだったんです」とご夫妻は仰います。
手に入れたのは「理想の暮らし」 |
ご夫婦が探してきたというお気に入りのアーチ型の玄関ドアを入ると、完成から5年経った今も木の香りが漂います。
1階の床は赤松の無垢材で、2階は杉材の板倉造り。
1階の内壁は漆喰や土佐和紙などを使い分け、天井にも吸湿性も高い土佐和紙、断熱材にはセルロースファイバーと、まさに自然素材の家です。
水回りなどのタイルや自然石、木製サッシの窓やステンドグラス、おしゃれな照明器具、スイッチやコンセントのプレートなどは一つ一つ、すべて奥様が探して用意されたもの。
ご主人のこだわりは意匠よりも基礎や構造にあったそうですが、「逐一注文を付けるまでもなく、やってほしいことはすべてトレカーサさんの標準仕様に入っていました」と笑います。
ちなみに1階南側のウッドデッキは、あとからご主人が日曜大工で造り上げた力作です。
まさに思いを100%実現させた家だけに、満足度も満点。
何より健康になった、と奥様はいいます。
アトピーが出ることもなく、以前は冷え性だったのに風邪一つひかなくなったそうです。
またお二人とも、家で過ごすのが楽しくて休日の外出も少なくなったとか。
理想の家を建てることは、理想の暮らしを手に入れること・・・ご夫妻の笑顔は、私たちにあらためてそう教えてくれます。
* セルローズファイバー *
主な材料は新聞紙です。
粉々にした新聞紙に麻の繊維を混ぜて作られます。
天然木質繊維の自然素材で、吸放湿性を持ち、適度な湿度を保つ大変エコな断熱材です。
* 土佐和紙 *
植物を原材料としているため身体に害が無く燃やしても環境を汚すことはありません。
また、呼吸している為に自然に室内の湿度やホコリを吸収する性質があり、時間の経過とともに風合が良くなっていくのが特徴です。